白鳥おどりの由来

 

清流長良川の最上流に位置する白鳥町(岐阜県郡上市)は、その昔、富士山、立山と並ぶ
三名山の一つ、白山への信仰の東海側の拠点「美濃馬場」として、登拝者は「山に千人」
「麓に千人」といわれるほどにぎわいました。

郡上の盆踊りは、念仏踊りや風流踊りを源流としながら、白山民謡文化圏において、白山
信仰との関わりの中で成立したと考えられます。

白山中宮長滝寺や石徹白の白山中居神社には、様々な修行者、登拝者たちが往来し、かれら
が伝えた念仏踊りや歌念仏と白山を誉めるショウガ(唱歌)が結合して、白鳥おどりの中で
最も古い「場所踊り」になったと思われます。

享保8年(1723年)の長滝寺経聞坊「留記」7月9日の記事に「盆中お宮にて踊り申す
事、奉行より停止の書状到来」という白山中宮長滝寺における盆踊り停止命令があり、この
記事により逆にそれまで境内での盆踊りが慣習となっていたことがわかります。

江戸中期以降の諸資料には、白山中宮長滝寺をはじめ、郡上郡上保筋の寺社境内において、
盆踊りが毎年行われ、近郷からも踊りに往来していたことが記されています。盆踊りの内容
・種目については、資料がなく不明ですが、おそらく「場所踊り」を基本とし、越前及び荘
川方面等から伝わった白山民謡文化圏の種目が踊られていたと推察されます。

江戸中期以来昭和前期まで、郡上の盆踊りは拝殿踊りとして続きました。神社の拝殿の中央
には悪霊除けの花笠に由来する切子灯籠が吊り下げられ、美声自慢の若者たちが音頭を取り
合い、板敷きの拝殿の床で下駄の音を鳴り響かせ、近所の若い衆も往来し、輪をつくって踊
りました。

明治維新(1868年)後、政府が推し進めた急速な欧米化政策は、盆踊りや村芝居等の民
俗的風習を否定するものであり、これを受けて岐阜県は明治7年(1874年)盆踊り禁止
の布達を出しました。
このような禁令にもかかわらず、盆踊りは廃絶することなく細々と受け継がれました。大正
末期に伝統芸能の復活の機運が高まると、白鳥町でも盆踊り保存と伝承の動きが出ましたが、
満州事変から太平洋戦争と戦争が激化するなかで消えていきました。

戦後、各地で盆踊りの復活の機運が高まると、昭和22年(1947年)「白鳥踊り保存会」
が設立され、白鳥神社などで拝殿踊りとして踊り継がれてきた白山民謡文化圏の多くの踊り
の種目の中から、代表的ないくつかの踊り種目を選んで「白鳥おどり」として整備しました。

昭和30年代に入ると、白鳥町はこの踊りを観光に生かそうと考え、切子灯籠を街頭に吊るし
、笛、太鼓、三味線などの鳴り物を入れて、踊り屋台を囲んで、街頭で踊るようになりました。
神社での拝殿踊りの伝統を生かした白鳥おどりは、同じ郡上の盆踊りでも八幡町の郡上おどり
とは異なる特色をもち、「神代(ドッコイサ)」「世栄(エッサッサ)」などのテンポの速い、
活動的な踊りは、若者をはじめ多くの人々に愛好されています。

一方、拝殿踊りの古い姿を保存伝承するために「白鳥拝殿踊り保存会」が組織され、毎年8月
17日白鳥神社及び8月20日野添貴船神社において、楽器、太鼓を伴わない本来の拝殿おど
りが催されます。
「白鳥の拝殿踊り」は、平成13年(2001年)岐阜県重要無形民俗文化財に指定され、次
いで平成15年には国選択無形民俗文化財に選ばれました。

白鳥おどりは、全国的な民謡ブームに乗って年々盛大になり、踊りの回数も増え、昭和40年
代からは、期間も7月下旬から8月下旬までになり、特にお盆の3日間は、徹夜で踊られます。
奥美濃しろとりの夏の風物詩として、そして後世に保存伝承すべき貴重な民俗芸能として踊り
継がれているのです。